camiです。
Evernoteの場合は、input-and-searchが基本で、organizeはあくまでオプショナルになる。なのでorganize機能を充実させるのは、いたずらに複雑性を増すだけなのかなあと。
これはその通りだと思います。
Evernoteの講習会が開かれており、そのまとめブログを眺めることもあるのですが、整理をするなら「複雑な工夫」が必要になっているという印象を受けます。
複雑な工夫をせずに、自然にできるのが理想なんですが、数学的に否定されてしまっていると…。
私事になりますが、Piggydbを使って、「整理」と「学習」できたと感じられたことを一つ。
私には現在、要介護の身内がいます。
金銭的な問題も抱えています。
そして私自身も病院通いの生活です(以前、なかなかコメントしにくいと言ったのはこれが原因でした…)。
まず、一つの問題を解決しようと、対処方法、参考資料などを集めていきました。
そうしているうちにタグフラグメントが浮き出てきて、ある程度の形になりました(「問題の整理」)。
それを、現在抱えている各問題に対して行ったところ、共通するフラグメントが見つかりました。
「もしかしたらこれが核になるかもしれない」と思い、それをまたタグフラグメント化して、付近のフラグメントにタギングしていくと、解決の糸口が見えてきました。
そうこうしているうちに「自分を守りつつ介護する方針」が立ちました。
これはPiggydbのおかげです。
非常に感謝しております。
…で、この流れこそが「整理に対する恣意性」と「学習」ということでいいのでしょうか?
ただ、それはもしかしたら「同時期に複数の問題を抱えていた」という認識があったからこそできたのかもしれません。
たとえば各問題が別々の時期に発生し、時系列として遠く離れたフラグメントからヒントを得なければならない状況だと、この方針を見つけ出せなかった可能性もあります。
結局のところ、そういう関連性を見つけ出すのは脳内の作業です。
そう考えると、距離の大きなフラグメント同士の関連に気付くためには、やっぱり大局的な視点が欲しい気がします。
タグフラグメントを駆使するにしても、タグフラグメントの量自体が増えすぎるという問題も発生しますし。
情報の量と視認性はトレードオフの関係になるわけで、難しい問題なんですよね。

「蓄積」と「大局的な視点」

camiさん、
介護問題、私も一度覚悟を決めた後にその身内が亡くなるという経験をしているので他人事とは思えませんが、回り回ってPiggydbというソフトウェアがそのような形で、ささやかにでもお役に立てたということであれば、これ以上嬉しいことはありません。
結局のところ、そういう関連性を見つけ出すのは脳内の作業です。
そうなんですよね。人間の能力を馬鹿にしてはいけないなと思います。Piggydbと似たようなアイデア創造の手法としてKJ法というものがありますが、確か立花隆氏だったと思いますが、そんなまどろっこしいことをしなくても人間は頭の中で同じようなことをやっているという批判がありました。
と思って、ググったら、やはり見つかりました。
KJ法の原理は非常に重要なことだということはわかっていた。しかしそれは、別に川喜田二郎に教えられるまでもなく、昔から多くの人が頭の中では実践してきたことなのである。別に珍しいことではない。KJ法のユニークなところは、これまでは個々人の頭の中ですすめられていた意識内のプロセスを意識の外に出して一種の物理的操作に変えてしまったことにある。「頭の中であれこれとりとめもなく考える」というプロセスをさまざまの概念を記した紙片をあちらに動かしたり、こちらに動かしたりという物理的運動に変える。それによって、これまで個々人の頭の中という無形の作業空間しかなかったものが、一つの物理的作業空間を得ることによって、集団的作業が可能になる。作業手順を定型化することで、万人向けのシスティマティクな方法論が確立する。... KJ法のごとき発想、つまり、思考過程を普遍的かつシスティマティクな物理的作業手順に分解することによって、これまで意識内作業であったものを物理的作業に置き換えることができるという発想は、コンピュータにはふさわしいが、人間にはあまり向かない。
コンセプトを発見するというプロセスにおいて、人間にはそれまでの長い経験に基づく直感というものもありますし、システムができるのはあくまで補助的な部分だけだと思います。ただこの補助の機能としてcamiさんが言われる「大局的な視点」をどうやって実現するかという部分においては、まだまだ工夫の余地はあると思います(スライダーによるズームもこの観点からの機能でした)。
むしろシステムとして重要なのは発見したコンセプトを「蓄積」する方かなとも思います。人間の記憶には限界がありますので、データベースがある程度以上に成長すると、脳のキャパシティを超えた部分で、さらなるコンセプトの発見をサポートできる可能性が高まるのではないかと期待しています。
蓄積した情報をどう見せるかについては、いくつかアイデアがありますので、今後のバージョンでそれらを実装していくことになると思います。「蓄積」と「大局的な視点」がうまく両立できればKJ法の限界も突破できるのではないかと。

→ ...

camiです。
介護問題、他人事ではありませんでしたか、心中お察しします…。
ささやかどころかメインの役割を担ってくれましたよ!本当にありがとうございます。
システムができるのはあくまで補助的な部分だけだと思います。
むしろシステムとして重要なのは発見したコンセプトを「蓄積」する方かなとも思います。人間の記憶には限界がありますので、データベースがある程度以上に成長すると、脳のキャパシティを超えた部分で、さらなるコンセプトの発見をサポートできる可能性が高まるのではないかと期待しています。
なるほど。
単に情報を蓄積してそれを探すだけなら、いたずらに機能を増やさず、アクセシビリティを高めればいい。
コンセプトを見つける手伝いだけなら、それこそKJ法を再現すればいい。
しかし、Piggydbは単に情報をためていくだけではなく、情報を集めたときに頭の中で行われていたプロセスを復元する力を持っているんですね。
それが時間や分野をまたいで、新たなコンセプトを生み出す可能性をもたらすと。
いくつかのアイディアがあるということなので、今後のバージョンアップに期待しております。

コンセプトの文脈を支えるタグフラグメントの二層構造 → ...

#651で見つけたブログ記事(「KJ法は発想支援ツールとして有効?」)で展開されている考察がなかなか興味深かったので、ここからちょっと展開してみたいと思います。
このブログの筆者であるyama氏は、キーワードを中心にした共同作業でのアイデア創造手法(KJ法の変形)について、
私をして違和感を持たせたというのは、おそらく、提出させられた「キーワード」の裏にあるアイディア、そしてその背景、文脈が全く切り取られたかたちで議論の俎上にあげられたということだったように思う。... しかし、複数の参加者が、突然、「キーワード」あるいは「一行見出し」のみをならべ、相互の関連を考察しようとしても、何も新しい発想など生まれる筈がない。「一行見出し」がそれに代表されているリッチな内容が参加者間で了解されていないからだ。こうした議論が、表面的なもので終わるのは不思議なことではない。
という感想を述べておられますが、これは全くその通りであると私も思いました。
キーワードや見出しの質にもよるとは思いますが、発想のために重要なのはその背後にある膨大な文脈の方であって、キーワードはあくまで結果に過ぎないと思うのです。
面白いと思ったのは、このキーワードを中心としたある種の恣意的な連想ゲームというのは、この記事にある研究会の中だけではなく、現在のメディアを媒介した一般的なコミュニケーションにおいても同様のことが展開されているという点です。
特にインターネット上のコミュニケーションでは、こういった現象がますます加速していって、キーワードから完全に文脈が排除され、受け手の好きなように解釈・再利用されるという感じになっています。
私自身は、これはいわゆる創造的なプロセスとは逆行するものではないかと考えていて、故に共同作業でのアイデア創造についても懐疑的に考えざるを得ないと思ったりしています。
Piggydbではコンセプトタグフラグメントというもので表現しますが、これは試行錯誤の結果発見されたコンセプトにせよ、これから調べたいと考えて、予め設定されるコンセプトであるにせよ、その下に膨大な文脈情報をぶら下げることができるようになっています。
タグフラグメントとは「タグとしても使えるフラグメント」のことですが、このタグフラグメントはつながりとタグという二つの経路を使って他のフラグメントと関連付けることができます。以下のスクリーンショットのように、二層のグループ化されたフラグメントを持つことができるわけです(上部がつながりによるもので、下部がタギングによるもの)。
http://piggydb.files.wordpress.com/2011/08/full-fledged-tag-page.png
コンセプトを下支えする情報が二層化されることによって、コンセプトにとってより本質的な情報はつながりで接続、単に関係がある情報はとりあえずタギングしておく、という感じで、関連情報を振り分けながら、コンセプトの輪郭を作り上げていくことができます。あるいはその過程で、別のコンセプトを発見したりということも起こりやすくなります。
創造的なプロセスを実現するためには、膨大な文脈情報をいかにうまく構成できるかというのがキーポイントで、それをタグフラグメントによる二層構造で表現してみよう、というのがPiggydbのアプローチです。

昇格したタグフラグメントは象徴であり、価値はそれが象徴する中身そのものにある

いや、きっと「"昇格したタグフラグメント※1"で括られた"つながり”によって構造付けられたフラグメント群の集合」の価値の方が、「"昇格したタグフラグメント"」そのものよりも価値があるのでしょう。言い換えるならば、"アイデアを実現する過程で蓄積した文脈"の方が、"アイデアそのもの"、"アイデアのネーミング"、"アイデアの説明"よりも価値があるということではないでしょうか?
つまりこれは、価値があるのは、アイデアの方なのか、それともそれを実現する過程で蓄積した文脈の方なのか、という話ですね。
これに対して、文脈重要派が、アイデアは実現しなければ価値がない、という場合、それはいいアイデアを実現すると必然的に価値のある結果が得られるという意味ではなく、蓄積された文脈の価値によって、結果の重要性が左右されるという意味になります。

※1"つながり"によって構造付けられたフラグメントが"タグフラグメント"化したタグフラグメントを、ここでは仮に"昇格したタグフラグメント"と呼び、"生まれつきのタグフラグメント"と区別する。
※2過去のPiggydb.jpで使われていた単語に合わせて、変身を昇格に修正。

タグフラグメントにはいくつの要素が詰まっているのだろうか? → ...

タグフラグメントをいくつかの要素に分けてみる。特に、私なりのやり方、Piggydbをボトムアップ中心で図解風に使っていく場合、という視点で分けてみる。
  • "つながり"で構造づけることができる。
    • 名前を付けることなく、図解のように"線でつなげたり"することができる。
  • タグフラグメントで『ID810番』する事が出来る。
  • 本文を表現できる
    • 名前を与えられる(=本文に対応した一行見出しを作ることが出来る)

以下は、Piggydbをボトムアップ中心で図解風に使っていく場合のイメージ作りには役に立ちますが、タグフラグメントの『ID810番』を重視する場合にはあまりオススメしないやり方です。(フラグメントの『構造』は"つながり"で作るべきだと考える場合)

品物そのものと品物を作ったチームスタッフの価値の比較 → ...

つまりこれは、価値があるのは、アイデアの方なのか、それともそれを実現する過程で蓄積した文脈の方なのか、という話ですね。
  • #785 「アイディアの価値」
これは、例え話ではなくて、似た話なのですが、「品物そのもの」の価値と「品物を作ったチームスタッフ」どちらにより高い価値があるのかという話があります。
  • 「品物そのもの」の価値
    • 実際に使える。
      • 壊れることもある。壊れたら、価値は半減する。
  • 「品物を作ったチームスタッフ」の価値
    • 品物を制作した技術力
      • その技術力があれば、同じ商品を複数作ることが出来る。
      • またその技術力があれば、新しく進化した商品を作れるかもしれない。
      • その技術力は他の分野でも応用できるかもしれない。
    • 新しいアイデアを実現したその情熱。
      • その開発過程を振り返ることで、新たな発見があるかも知れない。
個人的な結論としては、両者にそれぞれ価値がある。としか言いようがないのですが、こういう視点を持つこと、そのものが大事なのかなと思います。
ちなみに私は知人から以下のようなプリウスの開発秘話を聞き、新鮮な驚きを感じました。
  1. 初期のハイブリッド車は、実はガソリン車よりも燃費が悪かった。
    1. その為、車に詳しい専門家ほど、プリウスに反対した。
  2. だが、開発者は、ハイブリッド車の未来を信じていた。
  3. そして、初期のプリウスが発売された。まだ燃費はそんなに良くなかった。だが、エコロジーを売りにしたマーケティング戦略、ブランド戦略に成功し、数を売ることに成功した。
  4. 数が売れたお陰で、開発を続けることができて、現在のプリウスは本当に、ガソリン車よりも燃費の良いハイブリッド車に進化した。

→ ...

camiです。
Evernoteの場合は、input-and-searchが基本で、organizeはあくまでオプショナルになる。なのでorganize機能を充実させるのは、いたずらに複雑性を増すだけなのかなあと。
これはその通りだと思います。
Evernoteの講習会が開かれており、そのまとめブログを眺めることもあるのですが、整理をするなら「複雑な工夫」が必要になっているという印象を受けます。
複雑な工夫をせずに、自然にできるのが理想なんですが、数学的に否定されてしまっていると…。
私事になりますが、Piggydbを使って、「整理」と「学習」できたと感じられたことを一つ。
私には現在、要介護の身内がいます。
金銭的な問題も抱えています。
そして私自身も病院通いの生活です(以前、なかなかコメントしにくいと言ったのはこれが原因でした…)。
まず、一つの問題を解決しようと、対処方法、参考資料などを集めていきました。
そうしているうちにタグフラグメントが浮き出てきて、ある程度の形になりました(「問題の整理」)。
それを、現在抱えている各問題に対して行ったところ、共通するフラグメントが見つかりました。
「もしかしたらこれが核になるかもしれない」と思い、それをまたタグフラグメント化して、付近のフラグメントにタギングしていくと、解決の糸口が見えてきました。
そうこうしているうちに「自分を守りつつ介護する方針」が立ちました。
これはPiggydbのおかげです。
非常に感謝しております。
…で、この流れこそが「整理に対する恣意性」と「学習」ということでいいのでしょうか?
ただ、それはもしかしたら「同時期に複数の問題を抱えていた」という認識があったからこそできたのかもしれません。
たとえば各問題が別々の時期に発生し、時系列として遠く離れたフラグメントからヒントを得なければならない状況だと、この方針を見つけ出せなかった可能性もあります。
結局のところ、そういう関連性を見つけ出すのは脳内の作業です。
そう考えると、距離の大きなフラグメント同士の関連に気付くためには、やっぱり大局的な視点が欲しい気がします。
タグフラグメントを駆使するにしても、タグフラグメントの量自体が増えすぎるという問題も発生しますし。
情報の量と視認性はトレードオフの関係になるわけで、難しい問題なんですよね。