「アイディアの価値」

最近こちらで話題になった話を象徴的に表す面白いブログ記事を見つけたので、ちょっとご紹介。
ここでの議論を追っている方にはお分かり頂けると思いますが、私はこの記事が参照している、まつもとゆきひろさんの元発言の方を支持する立場です。
つまりこれは、価値があるのは、アイデアの方なのか、それともそれを実現する過程で蓄積した文脈の方なのか、という話ですね。
Twitterの方では「これは単なるアイディアの定議論じゃないかなぁ。」というツッコミがありますが、このような立場の方が「いいアイデアがないかなあ」という場合、それはほとんど例外なく、その場で結果を要求しているのと同じ意味になります。それはいいアイデアならば、実現方法に関わらず価値があると仮定する(であろう)からです。
これに対して、文脈重要派が、アイデアは実現しなければ価値がない、という場合、それはいいアイデアを実現すると必然的に価値のある結果が得られるという意味ではなく、蓄積された文脈の価値によって、結果の重要性が左右されるという意味になります。
文脈重要派は、極端な話、出発点はほとんど問題にならない、とさえ考えます。どのようなところから出発しても、文脈の質次第で同じところにたどり着く可能性があるからです。重要なのは試行錯誤のプロセスであって、「アイデアなんかに価値はない」というわけです。
なので、
果てしなく大きな倉庫いっぱいに何かの種子がある。 ほとんど全て雑草とかどうでもいい木の種だが、 非常に稀に、金のなる木の種が混じっていて、十分に手をかけて何年も苦労して育ててやれば 素晴らしい実りをもたらしてくれる。ただし種の段階や若木の段階では、 他のどうでもいい草木とまず区別がつかない。 さて、この倉庫の前で種を一山いくらで売ってたら、いくらで買う?
という話は、アイデア自体に価値があるとする前提に立脚していて、文脈重要派が考える、後知恵として事後的に発見されるアイデアとは考え方のフレームワークがそもそも異なることになります。