コンセプト指向発想法

Piggydbで提案している知的生産の方法を暫定的に「コンセプト指向発想法」と呼ぶことにします。
コンセプト指向発想法とは、コンセプトを中心に知識を組み立てようという考え方です。ここで言うコンセプトとは、辞書やWikipediaの項目に相当するモノやコトのことです。つまりコンセプト指向では、自分(あるいはチーム)なりの辞書を構築してくような感じで集めた情報を整理していきます。
コンセプト指向のメリットは大きく分けて二つあります。一つは、情報量が増えて知識が複雑になっても、自分にとって重要なコンセプトとその関係が自然に浮き上がってくるため、従来の方法よりも「1) 見通しの良い知識ベースを構築できる」ということ。もう一つは、既存のコンセプトによる情報の整理(カテゴリー)よりも、新しいコンセプトの発想・研究に力点を置くことによって「2) 情報管理がよりクリエイティブなものに」なるということです。
このフラグメントには「コンセプト指向発想法」で重要になってくるコンセプトを随時ぶら下げていきます。この考え方自体もコンセプト指向で発展させようという試みです。

コンセプト

コンセプトに相当する日本語は「概念」ですが、いずれも辞書や辞典の説明で納得するのは難しい抽象的な「概念」です。
ここでは、ヒトが生来的に認識することのできる任意の「類似性」をコンセプトと呼ぶことにします。分かりやすく言うと、名指しできるもの全て、辞書やWikipediaの項目として紹介されるような、モノやコトのことです。
Piggydbは、情報の蓄積と編集を通して、ユーザーが新しいコンセプトを生み出すことを助けるような仕組みを構築することを一つの目標としています。
以下、Wikipediaより:
ある事柄に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容で、普通、思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの。
その概念を言葉で表現されたものを「名辞」と呼び、言語の構成要素として、それを組み合わせ、述べ表し、判断・認識可能なものとして現実世界をとらえて表現する。人間はほぼこのような概念化した名辞によって、この世の中のあらゆることを理解したり、表現したりしている。
また概念は、それを提議・提唱する者の心性、視点、立場、精神的なポジション・在り方を反映する。
コンセプトは、それらを敷衍し同様に扱うことによって、個々の物事・出来事の間の違いを省き、物事・出来事の間に共通する大要、要約、見解、イメージ、つまりは「普遍的概念」となる。このコンセプトは、実在の出来事や事件、物事の関係を種類に分け、分類化し、カテゴライズし、クラス分けをするのに貢献する。
概念は人間の精神内部に存在する何かであり、抽象的、普遍的なものである。精神外部の世界に存在するものや、出来事や、それらの関係について概念が存在する。ひとつの概念は個々の事物というよりも、事物の集合に対して存在する。
概念は、個々の物事の細かな相違点を無視して、それらが同一であるかのように扱うという意味で抽象的である。概念は、(それが表す)個々の事物すべてに当てはまるという点で普遍的である。

類似性の発見 → ...

  • パターン認識 - Wikipedia
    • 「近年、「認識とは、結局どのクラスに分類されるかという識別問題に帰着することができる」という立場の研究が、人工知能や統計の研究と融合して大きな成果をあげている。」

タグフラグメント → ...

タグフラグメントは、タグの機能を併せ持つフラグメントです。
タグはWebサービスなどで普及している情報整理の手法です。いろいろな情報に対して、そのときに思いついた言葉でラベリングをしておき、後々その情報を探しやすくしたり、タグクラウドなどを利用して情報全体の傾向を把握したりすることができます。
フラグメントは、Piggydb特有のコンセプトで、データベースに入力される情報の単位です。ブログで言うと一件の記事、ツイッターで言うと一つのツイートに相当します。
この二つの機能を併せ持つので、タグフラグメントタグとして他のフラグメントに貼付ける(ラベリング)ことが出来るのと同時に、タグフラグメント自身がフラグメントとしてコンテンツを持ち、他のフラグメントとの「つながり」を持つことができます。
タグフラグメントは通常、データベースの中で重要なコンセプトを表現するために利用します。
ちなみに、この「タグフラグメント」という項目自体がタグフラグメントになっています。このフラグメントからの矢印を辿ると「タグフラグメント」というコンセプトにとって重要な項目を見ることができますし、「タグフラグメント」のページにジャンプすると、つながりによる隣接項目に加えて、「タグフラグメント」というタグが貼付けられたフラグメントの一覧も見ることができます。
上記のように、タグフラグメントは情報を二層に分けて整理するのが重要なポイントです。これによって、そのコンセプトにとって重要な情報と周辺的な情報を分けて管理することができるようになります。

みにくいあひるの子定理

人間の認知パタンから独立した客観的な性質をことごとく選んでそれらを等価とみなすと、すべての対象は同じぐらい似ていることが証明できる。あひると白鳥は、2羽の白鳥が似ているのと同じくらい似ているという意味で、これを「みにくいあひるの子定理」という。渡辺慧氏により厳密に証明された。したがって、すべての分類は、本来的に恣意的なものである。あるいは、分類とは、世界観の表明にほかならない。『「超」整理法―情報検索と発想の新システム

KJ法

KJ法(-ほう)は、文化人類学者川喜田二郎(東京工業大学名誉教授)がデータをまとめるために考案した手法である。データをカードに記述し、カードをグループごとにまとめて、図解し、論文等にまとめてゆく。KJは考案者のイニシャルにちなむ。共同での作業にもよく用いられ、「創造性開発」(または創造的問題解決)に効果があるとされる。(Wikipediaより)
収集した情報をグルーピングしてコンセプトを作る手法。特に「異質のデータを統合する」ときに新しいコンセプトが生み出される、とする。発見したコンセプトを論理的に納得できるよう、空間的に配置し、それを元に文章を作成するのが最終目的である。
Piggydbの手法は基本的な部分でKJ法と同等であると考えられる。KJ法はカードを利用するので情報量に限界があるが、Piggydbはコンピュータソフトウェアで実現されたデータベースなので膨大な情報量を材料にでき、かつ情報の見せ方も柔軟に選択できる。

KJ法の失敗パターンから知識創造のノウハウを学ぶ → ...

この記事によれば、KJ法とは、
そもそもバラバラに集めた質的データを、いかに包括的な視点でそれらの関係性を組み立て、部分をみていたのではわからなかった新たな発見をするかという手法です。創造的に問題発見を行う発想法です。
KJ法を使いこなすための重要なポイントとしては以下の三つが挙げられるようです。
  1. コンテクストの共有
  2. 既存の知識体系からの脱却
  3. ラベルの選択(命名)
観察者それぞれで異なる見方をしてしまうので、おなじ事実をみても観察者によって解釈が異なる
まず「コンテクストの共有」ですが、材料となる情報について、解釈が人それぞれで、でたらめな連想ゲームのようになってしまうと、表面的な議論に終始することになってしまう、ということですね。この問題ついては、#654でも言及しています。Piggydbは個人で使うケースが多いと思いますので、材料の解釈については問題にならないでしょうが、そこから新しいコンセプトに結びつける過程では、やはり文脈というのが大事になってきます。というのは、既存の知識や社会の文脈を踏まえなければ、何が隠された問題なのかを判断することも出来ないからです。
KJ化の肝、統合化の失敗パターンは特に興味深いです。
* 似ているものをつなぐことをせず、カテゴリーに分けてしまう。
* 観察対象の人びとの行動のなかの体験そのものを想像せずに、カードに書かれた言葉のイメージだけで分類する。
* 最初に大きなグループに分けてから、小さなグループを作ろうとする。
* グループ化したものに、そのグループに含まれる特徴をすべて含んだ適切なラベルがつけられない。
* ラベルが貧弱なため、ラベルとラベル同士の類似が見つけられない。
「既存の知識体系からの脱却」というのは、ある意味、KJ法やPiggydbのそもそもの目的と言ってもよいのではないかと思います。既存のカテゴリーを横断するような重要な問題を発見する。言うのは簡単ですが、普段からそのような思考方法に親しんでいないと、なかなか難しいところです。
とにかく普段、思考の別化性能(違いで分ける)ばかりはたらかせている現代人は、似ているもの同士をつなげるという類化性能をはたらかせるのが苦手です ... 求められているのは、「分ける」ことではなく「つなぐ」ことなのに、表面(言葉)の同一性に眼を奪われて、人びとの行動や体験そのものの背後にある類似性に眼を向けることが苦手です。 ... 本来常に動き変化するものである物事をことばなどで固定化した形でとらえてしまい、動いている事物のなかの緒力に目を向けられないという現代人の傾向にもつながる話ですね。
こういった思考方法を鍛えるにはどうしたらいいでしょうか。一つの案としては、全く関係ない分野の本をいろいろと読んでみる、というのも一つの手ではないかと思います。私は、既存の知識体系に囚われることを「専門性の檻」と呼ぶことがあります。知識豊富な人でも、専門家を自認していたりすると、通常よりも強くその分野の知識体系に囚われていることが多いからです。

KJ法を説明することは、「なぜあなたがやるKJ法はうまく行かなかったか」を説明する事に、ほとんど等しい。

KJ法には、一望する、並べ替える、突き合せる、名付ける、という知的作業の4エレメントがすべて含まれている。
KJ法を説明することは、「なぜあなたがやるKJ法はうまく行かなかったか」を説明する事に、ほとんど等しい。
一番よくあるのが「分類という病」だが、あるファシリテーターは「分類」をたしなめるのではなく(そうするとかえって「治療抵抗」が引き起されるだけなので)、あえてさらに「分類」に追い立てる事で、この罠を抜けるところまで持っていく。病気の経過を速度を上げて通り抜けさせるところなど、なかなかおもしろい。
「料理」はむしろ、異なるカテゴリーから材料を選んで来ないと成立しない。
中身→パッケージ→消費者(という人)へと、焦点が移動して来ている。

コンセプト → ...

コンセプトに相当する日本語は「概念」ですが、いずれも辞書や辞典の説明で納得するのは難しい抽象的な「概念」です。
ここでは、ヒトが生来的に認識することのできる任意の「類似性」をコンセプトと呼ぶことにします。分かりやすく言うと、名指しできるもの全て、辞書やWikipediaの項目として紹介されるような、モノやコトのことです。
Piggydbは、情報の蓄積と編集を通して、ユーザーが新しいコンセプトを生み出すことを助けるような仕組みを構築することを一つの目標としています。
以下、Wikipediaより:
ある事柄に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容で、普通、思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの。
その概念を言葉で表現されたものを「名辞」と呼び、言語の構成要素として、それを組み合わせ、述べ表し、判断・認識可能なものとして現実世界をとらえて表現する。人間はほぼこのような概念化した名辞によって、この世の中のあらゆることを理解したり、表現したりしている。
また概念は、それを提議・提唱する者の心性、視点、立場、精神的なポジション・在り方を反映する。
コンセプトは、それらを敷衍し同様に扱うことによって、個々の物事・出来事の間の違いを省き、物事・出来事の間に共通する大要、要約、見解、イメージ、つまりは「普遍的概念」となる。このコンセプトは、実在の出来事や事件、物事の関係を種類に分け、分類化し、カテゴライズし、クラス分けをするのに貢献する。
概念は人間の精神内部に存在する何かであり、抽象的、普遍的なものである。精神外部の世界に存在するものや、出来事や、それらの関係について概念が存在する。ひとつの概念は個々の事物というよりも、事物の集合に対して存在する。
概念は、個々の物事の細かな相違点を無視して、それらが同一であるかのように扱うという意味で抽象的である。概念は、(それが表す)個々の事物すべてに当てはまるという点で普遍的である。

事後的に発見されるアイデア

アイデアとその実現を別々に考える、というのは、おそらく今でも多くの人にとって自然な考え方でしょうし、特に組織においては支配的な考え方だと思います。まずブレインストーミングなどでアイデアを出すフェーズがあり、そのアイデアに対して評価を行い、その後に、良さそうだとされたアイデアの実現に向けて行動を開始する。
しかし、実際はそのようなやり方が機能することはほとんどなく、組織で生み出されるものは概して流行を追いかけるものばかりだったりします。
現代において新しくて価値のあるものを生み出そうとするなら、ほぼ例外なく、探索的な手法を取らざるを得ないのではないかと思います。トライアル&エラーで常に学習しながら軌道修正していかざるを得ない。その探索の結果を後からまとめたものがアイデアとなる、つまり、そのように事後的にしか発見し得ないのが画期的なアイデアだと思うのです。
探索的、というのは進捗が堂々巡りになったときのクリエーターの言い訳にも聞こえますが、今では探索的な手法を如何に制御可能にするか、予測可能にするかという観点に立ったプロジェクトの管理手法も多く提案されていますし、今後ますます重要な考え方であることは間違いありません。

「アイディアの価値」

最近こちらで話題になった話を象徴的に表す面白いブログ記事を見つけたので、ちょっとご紹介。
ここでの議論を追っている方にはお分かり頂けると思いますが、私はこの記事が参照している、まつもとゆきひろさんの元発言の方を支持する立場です。
つまりこれは、価値があるのは、アイデアの方なのか、それともそれを実現する過程で蓄積した文脈の方なのか、という話ですね。
Twitterの方では「これは単なるアイディアの定議論じゃないかなぁ。」というツッコミがありますが、このような立場の方が「いいアイデアがないかなあ」という場合、それはほとんど例外なく、その場で結果を要求しているのと同じ意味になります。それはいいアイデアならば、実現方法に関わらず価値があると仮定する(であろう)からです。
これに対して、文脈重要派が、アイデアは実現しなければ価値がない、という場合、それはいいアイデアを実現すると必然的に価値のある結果が得られるという意味ではなく、蓄積された文脈の価値によって、結果の重要性が左右されるという意味になります。
文脈重要派は、極端な話、出発点はほとんど問題にならない、とさえ考えます。どのようなところから出発しても、文脈の質次第で同じところにたどり着く可能性があるからです。重要なのは試行錯誤のプロセスであって、「アイデアなんかに価値はない」というわけです。
なので、
果てしなく大きな倉庫いっぱいに何かの種子がある。 ほとんど全て雑草とかどうでもいい木の種だが、 非常に稀に、金のなる木の種が混じっていて、十分に手をかけて何年も苦労して育ててやれば 素晴らしい実りをもたらしてくれる。ただし種の段階や若木の段階では、 他のどうでもいい草木とまず区別がつかない。 さて、この倉庫の前で種を一山いくらで売ってたら、いくらで買う?
という話は、アイデア自体に価値があるとする前提に立脚していて、文脈重要派が考える、後知恵として事後的に発見されるアイデアとは考え方のフレームワークがそもそも異なることになります。