ローコンテクストな状況で安易なキャッチフレーズに流されないようにしたい

これはあくまで、私の印象で、たとえ話の題材に過ぎない事を注意して聞いて欲しいのですが、例えば昭和の日本人と現代の日本人を比べると、明らかにコンテクストに関する状況が変化してきていると思います。
例えば、ある種の狭いコミュニティの中では高文脈(ハイコンテクスト)な状況が生まれますので、名付けの重要性にはなかなか思い至らなくなる。名付けというのは、それまでコミュニティの中で積み上げてきたコンセプトの組み替えになるので、少なからず抵抗も生まれます。
一方、低文脈(ローコンテクスト)な状況、つまり多くの不特定多数の聴衆にアピールするためには、分かりやすい名前やキャッチフレーズが重要になる。例えば、「造反有理」などは20世紀に生まれたスローガンの中でも最大級ものものです。ただ、動員された多くの人はその文脈を理解せずに(あるいは理解しないことを狙ったとも言えますが)、大変な悲劇を引き起こしてしまった。
私のイメージでは昭和の日本人社会というものは、ハイコンテクストな社会だったと思います。みんなが同じ教育を受け、同じTVを見る。皆が1つの流行に夢中になる。巨人・大鵬・卵焼き-Wikipedia等が良い例だと思います。
ですが、現代の日本人社会は、明らかにローコンテクストだと思います。個人個人が多種多様な経歴で育ち、多種多様な価値観、ライフスタイルを持つ。グローバル化の流れ。
個人的には、ハイコンテクストな状況でこそ、一言のキーワードのみで誤解無く、意思疎通が叶うと考えます。(熟年のおしどり夫婦間の「アレ取って」で醤油を渡してくれる奥様などはこの最たる例です)
逆に、ローコンテクストな状況では、安易なキャッチフレーズは誤解を招くので、使用を控えるべきだと思うのですが、現実には逆のようですね。ローコンテクストな状況でこそ、安易なキーワードがもてはやされる。

少し、話が変わりますが、例えば、ツイッターの一言を取り上げて、ブログで議題にしたりしますよね。その時に、そのツイッターの作者の過去のツイッターやフェイスブック、ブログなどを一緒に確認する人はどの程度いるのでしょうか? 案外、作者本人は、過去のウェブ上の発言の蓄積というコンテクストを背後に、その一言をつぶやいているのかもしれません。ですが、現実にはほとんどの人々は一々過去のログを読み直して確認したりはしないと思います。
このことには、いくつかのポイントがあると思います。
  1. 一言だけを切り取られて、誤解されても別にいいやと思っている。
    1. ソーシャルメディア社会をある種軽やかに踊っていく術を身につけた人々。
  2. 普段から付き合っている相手(=ハイコンテクストな状況にある相手)にだけ真意が伝わればいい、と考えている。
    1. (ローカルを大事にする。地域密着型。等と言った、発想にも育ちそうな気がします)
  3. そもそも意図の誤解、とか深いことを考えていない。
    1. 安易なキャッチフレーズに釣られる人は、そもそもそこに正確な価値を求めていない。お手軽なら別に多少間違ってもいいや、そもそもそんなに大事なことでもないし。時間の方が貴重。
  4. 『最初から受け手が文脈を理解しないことを狙った』
    1. 受け手側が、そもそも文脈を理解しないで使えるお手軽さを甘受したがっている。文脈を捉える作業を面倒だと考えている。更に言えば、文脈を理解したくない、甘い言葉に騙されたいという、怠惰な誘惑に自覚的に負けている。
ここでは、ハイコンテクストな社会、ローコンテクストな社会、それぞれの是非について問う気はありません。ただ、私は少なくともPiggydbに関しては、正確な情報、コンテクスト、等を理解する労を惜しまずに使っていきたいと思います。

現代の日本人社会は、明らかにローコンテクストだと思います。個人個人が多種多様な経歴で育ち、多種多様な価値観、ライフスタイルを持つ。グローバル化の流れ。
国際化という文脈なども踏まえると表面的にはそのように見えることもありますが、実態は全く違うと意見もあり、私もそのように考えています。社会心理学だったと思うのですが、社会の多様性が増大し選択肢が多くなりすぎると、選択のコストが大きくなり、結果的に安直な選択肢に飛びつくようになる、という話があります。それで社会は同じ価値観の人たちだけが集まる島宇宙に分断されると。現実的には、国全体で大きな物語を共有していた時代よりもハイコンテクストな社会になっています。
というわけで、今の日本にとって大きな問題の一つは、ローコンテクストな社会に対して通用する言葉を持たないことではないかと思うのです。あるいはその想像力と言いますか。

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――CIAの陰謀だ。
 【◯◯◯◯】、クリック。「◯◯◯◯ - Wikipedia」、「◯◯◯◯ のニュース検索結果」、「◯◯◯◯オフィシャルサイト」、「◯◯◯◯ - YouTube」、「Amazon.co.jp: ◯◯◯◯」・・・。
 Googleの扉を開けると、ショッピングモールが広がっていた。皆きちんと定まった定型のユニフォームを着ている。自慢げに張る胸には大手のスポンサー広告。その背にはたくさんの客達。
 お金をもらってプロとしての仕事をするユニフォームに、たまに情熱的なアマチュアが同じようなユニフォームを着て混じっているのが現代らしいといえば、らしいのかもしれない。
 もう少し進んでみる。
 「◯◯◯◯-2chまとめサイト」「◯◯◯◯ - NAVER まとめ」「◯◯◯◯ - まとめアンテナ」。
 セレクトショップがちらほらと並び始てきた。似たような商品を扱うセレクトショップが軒を並べて争っている。◯◯◯◯激戦区。「どこよりも早い◯◯◯◯」、「幅広い◯◯◯◯を」、「こだわりの◯◯◯◯」。四角い顔をしたロボットとモニターの前の批評者と現場のプレイヤーが並んで店を出す。
 それなのに。
 商品の仕入れ先は。
 同じ産地。
 同じブランド。
 同じ会社。
 見回せば、その商品がそこかしこに歩き回っている。「Facebook」、「Twitter」、「Blog」、「2ch」。皆そのどれかのTシャツを来ている。足下は男女問わずジーンズだ。元気よく各店舗を買い回るヤツもいれば、突然露天商を始めるヤツもいる。そして、皆同じTシャツに同じジーンズ、いくつかのパターンのどれか。
 同じTシャツ。
 同じジーンズ。
 
 世界が静かに迫ってくる。音を立てずにスーッと壁が押し寄せてくる。
 ――世界は確実に、
 狭くなった。 狭くなり続けている。

 そこから抜け出すには、定型の作法を覚ねば。皆と同じTシャツを買い、ちょっとした着こなしの差で意気がってみせる。2着、3着とTシャツを増やし、ジーンズを買いそろえ、流行のファッションを追う。
 手作りの浴衣。地元の学校の制服。古着のつぎはぎ。輸入ファッション。部活のユニフォーム。ダサいの格好いいの、キレイなの。入り乱れていたWWWの大航海時代は、もう終わってしまったのか。煌めく個人サイトが、テキストだけを振り回し、オリジナリティ剥き出しで、暴れ回っていた海はどこへ消えたのか。重い蓋の宝箱に隠されたたった一枚の画像に狂喜乱舞したのは幻だったのか。
 「◯◯◯◯はX円です」
 「◯◯◯◯、今だけ半額」
 /
 「このウェブサービスは毎月X円でご利用頂けます」
 「このサイトは以下のスポンサー広告によって運営されています」
 自由の潮風が薫る大海原は消えた。
 代わりに漂うは金、金、金。
 ショッピングモールにコインを落せば、背後のビルディングで札束が舞う。

「やあ、先輩」
 派手なビビットのシャツとハーフパンツ。そこから健康的な手足を覗かせて。耳から伸びるイヤフォーンの先にはiPhone。「当人の家族、友達しか見に来ないアマチュアの時代がそんなに懐かしいですか? たくさんのお客さんに見られて、プロがファンタジーを魅せる、それは素晴らしい事じゃないですか?」
 日本リーグからJリーグ、か。
「確かに今みんなから注目されたかったら、プロフェッショナルな腕を磨くしかないよな、観客の数が違うんだからさ。そう、キミの言うとおりさ」
 そう時代は変わった。
「そうですよ、そもそも直ぐにプロの技が見られるのに、なんでアマチュアを探す必要があるんですか?」
 皆はそれを進化と呼ぶ。ならば。それならば。
「下手で荒削りで、でも世界でコイツしかいない、そんなヤツが見たい日もあるのさ」
 進化と言えるのは過去から見た今のことだ。進化し続けたいなら、今を疑い未来を探さなくては。そう、それでも地球は回るのだから。