素直に学び、知識を蓄積することの大切さ

平たく言えば、「コンテクストの共有」というのは、ひたすら勉強しろってことです。しかも、そこに自分流の解釈を挟まないことが大事です。挟んでしまえば、その時点で「コンテクストの共有」ではなくなります。もちろん、現実的に文脈を100%把握する、というのは不可能ですので、問題となるのはそこへ向かおうとする志向なんだと思います。
まず、自分流の解釈、恣意性は絶対に消せないことを理解した上で、出来るだけ中立的に考えることを志向するか、それとも自分のバックグラウンドを明示した上で自分の知識を構築、提示していくか、2つの意識を使い分けることが大事になると思います。
特に、義務教育で習う内容、公的な知識、一般常識、学術的教養、などとされる分野では、中立的な意識を持ち、"素直に"学習するという事がとても大事ですよね。大人になってから考えてみると、暗記教育というのも、自らの知的生産の土台としては悪いものでは無かったなと思います。
1つの言葉に対して、みんなと同じコンテクストを感じられる、ということはやっぱり大事なことなんですよね。
ただ、やっぱり土台作りばかりでは楽しくない、というのも子供の本音ですよね。土台作りの大切さと、自らの知的生産の手法の発見と追求、その両者をバランスよく教育に取り入れていければよいと思います。
日本的な師匠と弟子の関係にも、再認識すべき点、改めてリスペクトされるべき点もあるのでしょうが、その当たりは私自身が不勉強なので、触れないでおきます。
P.S.
最近の考えでは、"教科書は決して中立じゃない"、"マスメディアは恣意的・商業的だ"などという考えも大きいですが、まあそういう事も意識しつつ、先人の知識を学ばせてもらう生徒として、"素直"に勉強するということの価値、も見直されるべきなのかなと思います。
教科書の内容やマスメディアの報道よりも、あるblogの解説の内容が、"個人的に納得しやすい"から、とソーシャルメディアを重宝する。まあ、それ自体は悪いことだとは思いません。複数の視点を意識することも大事です。ただ、"ソーシャルメディアを盲信"する事はやはり危険ですよね。
教科書やマスメディアにも恣意性があるにせよ、最低限の権威による信頼性や公共性というものが存在するわけです。1つの情報に対して、何人ものプロフェッショナルが裏付けをして、内容を推敲して、万人に向けて発表する。その過程にはやはりある程度のリスペクトがなされて当然だと思います。

知識の発信者(Source)意識

知識の発信者(Source)意識
Piggydbならば、特に個人での使用の場合、ユーザーアカウントに"Wiki"や"○○News("具体的な番組名)、書籍名、ソーシャルメディアの登録名、などを登録していく使い方も面白いと思います。wikiから得た知識は、wikiアカウントで登録して、蓄積していくのです。そして、"つながり"や"フラグメントの埋め込み"を使って本人のアカウント(私なら"magician")で作ったフラグメントと関連づけていきます。
Web上など、複数の方が使われる場合は、厳密に考えていくならば、誰がそのアカウントで登録をしたのかを記録する必要があるかも知れません。(そこまでの厳密さは必要ないかもしれませんが)

ちょっと誤解があるようですが、文脈を把握するというのは、中立的に考えるということとは違いますよ。そういった価値判断の外にあるものです。「"素直に"学習するという事」とも違います。文脈は「背後」にあるものなので。

キーワードが辞書やwikiに載っていない場合 → ...

ちょっと誤解があるようですが、文脈を把握するというのは、中立的に考えるということとは違いますよ。そういった価値判断の外にあるものです。
少し言葉足らずだった、そして少し自分の中でイメージの整理が雑だったようです。ご指摘、どうもありがとうございます。
言葉を足して、言い直してみます。

平たく言えば、「コンテクストの共有」というのは、ひたすら勉強しろってことです。しかも、そこに自分流の解釈を挟まないことが大事です。挟んでしまえば、その時点で「コンテクストの共有」ではなくなります。もちろん、現実的に文脈を100%把握する、というのは不可能ですので、問題となるのはそこへ向かおうとする志向なんだと思います。
KJ法における複数人での「コンテクストの共有」を図る方法の一例。
  1. そのキーワードが辞書やWikiに紹介されていれば、参加者全員で辞書やwikiを読む
    1. 辞書やwikiに載っていなくても、教科書的なものがあれば、それを全員で読む。
  2. そのキーワードが登場したのが、論文や小説、ソーシャルメディアの文章記事などであれば、まず参加者全員がその元の文章全体を読む。
    1. 可能であれば更に、参加者全員がその作者のプロフィールや他の作品を読み、その作者のバックグラウンドを把握する。
以上の作業中に、自分流の解釈を挟まないように努力する。

もしも、そのキーワードが辞書やwikiに載っていない言葉で、教科書も存在しない場合の方法。 (または、そのキーワードの説明が辞書やwikiや既存の教科書では不十分な場合の方法)
自分たちで、そのキーワードの教科書を作る。(ここでは、そのキーワードを提案した担当者が個人で教科書を作る場合を想定)
1.まず、自分流の解釈、恣意性は絶対に消せないことを理解する。
2-A.その上で出来るだけ中立的に考えることを志向する。
  1. 報道事実を曲げずに描写すること(事実性原則)
  2. 報道する者の意見を含まないこと(没論評原則)
  3. 意見が分かれる事柄は一方の意見に偏らず報道すること(不偏不党原則)
以上の報道倫理-Wikipedia内の「客観報道の定義」を参考に、そのキーワードのコンテクストを解説する教科書を作る。
2-B.自分のバックグラウンドを明示した上で自分の知識を構築、提示していく。
  1. 自分なりのそのキーワードのコンテクストの解説。そのキーワードに対する自分の考え。
  2. 自分がそのキーワードのコンテクストをそう捉えるようになった根拠、情報源の提示。
  3. 自分の経歴、学習過程、得意分野、主要な思想方法、等を自己紹介する。
以上のようなポイントを抑えて、自分なりのキーワードのコンテクストを紹介するマニュアルを作る。
2-Aと2-B、2つの方法を意識的に使い分けていくことが大事になると思います。

単純暗記も知的生産の土台作りとして有効 → ...

「"素直に"学習するという事」とも違います。文脈は「背後」にあるものなので。
まず、単純に義務教育で習う内容をKJ法の参加者全員がきちんと暗記していたとします。そうすれば、義務教育で習う範囲のキーワードに関しては、全員が共通のコンテクストを持つ事ができますよね。(各個人で追加のコンテクストを持っている場合があっても、教科書で教わったコンテクストは共通していますから)
なので、子供の頃に"素直に"学習しておくことは、大事なことなんだな、と主要な論点はこれだけです。
("素直に"学習することは、"丸暗記"して学習すること、と置き換えて解釈して頂ければと思います)
例えば、「長篠の戦い」と聞けば、その言葉の背後にある「当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされる」という歴史的背景、つまりコンテクストを共有できますよね。
(手元に義務教育の頃の教科書が無いので、代わりにwikiから引用しましたが、だいたいこのレベルのことは習ったはずです。長篠の戦い-Wikipedia)
KJ法で新しいアイデアを考えるときに、「長篠の戦い」というキーワードが書かれたカードがあり、参加者全員がきちんと義務教育の勉強を身につけていれば、「最新技術の採用がもたらす成果」、「最新技術を採用する場合にも、更に工夫を凝らすことが勝利の秘訣である」などの、コンテキストを共有することが出来ると思います。

ここから先の説明は、私の考えでは、「KJ法におけるコンテクストの共有方法を図る事」と関連する話題なのですが、もしかしたら客観的に見て、その範囲を飛び越えているかもしれません。ゆるやかな視野で読んでいただければ幸いです。

私は子供の頃、丸暗記することが大嫌いでした。必ず、「何故、そうなるのか?」、「何故、これを学ぶのか?」などを納得しないと勉強したがらない子供でした。単純な丸暗記が苦手な反面、一度興味を持ったことはとても意欲的に学習しました。(私の場合は、特に小学生の頃までは良い教師や良い本に恵まれたので、私の学習意欲を刺激し、勉強したくなる環境で育つ事が出来ました)
その時の印象を一言で言えば、「自分が納得して理解したことだけを覚えることができるものだ」というものです。
そして、時が経ち、大人になり、単純な丸暗記が必要になるケースが増えました。(もしくは、意欲的に周辺分野を調べ、自分の中の疑問を解決する時間が取りにくくなり、丸暗記せざるを得なくなった)
ただ、驚くことに、"単純な丸暗記をしたお陰で、その後、事後的にその内容を理解できるようになるという経験”を何度もする事になりました。それ故に、今では単純暗記も知的生産の土台作りとして有効な一過程であると考えるようになりました。
特に、義務教育で習う内容、公的な知識、一般常識、学術的教養、などとされる分野では、中立的な意識を持ち、"素直に"学習するという事がとても大事ですよね。
における"中立的な意識"を持ち、という部分は、教科書の内容が間違っている、としても、まず教科書の内容を知らなければ、どこがどう間違っているか分からないよね、という指摘を込めた言葉です。ちょっと"中立的な意識"という言葉はチョイスが間違っているかもしれません、スミマセン。(思春期の頃、教科書は間違っているから信じない(→勉強しない)、一般常識って誰の常識だ? などといろいろ疑っていた当時を思い出して、自戒を込めての指摘になります)