「コンテクスト」の意味については、記事に書かれている内容で合っていると思います。「コンテクストの言霊」というのがピンと来なくて、「○○の言霊」ということで、どのような言葉でも言えてしまいますし、「コンテクスト」である理由は何なのかなというのが素朴な疑問でした。
元のKJ法の記事(#735)の「既存の知識体系からの脱却」については、ちょっと誤解を与える表現だったかなと反省していますが、既存の知識を無視していいという話ではありません。むしろ既存の文脈がなければ「画期的なアイデア」なる概念すら存在し得ない。つまり、「コンテクストの共有」が前提にありつつ、「既存の知識体系からの脱却」をするという話です。脱却というか、その上に新しい視点を加えると言ったほうがいいのかもしれませんが、、、
この話は結構重要だと、個人的には思っているのですが、価値のあるアイデアというのは「思いつき」とは違うものだと思います。なので、アイデアを発想する、という表現にも若干違和感を感じます。これは以前にもちょっと書きましたが、その背後に膨大な文脈があることが重要なのであって、おそらくアイデア自体に価値はありません。アイデアと呼んでいるものは基本的に後知恵でしょう。
平たく言えば、「コンテクストの共有」というのは、ひたすら勉強しろってことです。しかも、そこに自分流の解釈を挟まないことが大事です。挟んでしまえば、その時点で「コンテクストの共有」ではなくなります。もちろん、現実的に文脈を100%把握する、というのは不可能ですので、問題となるのはそこへ向かおうとする志向なんだと思います。
このようなツールを作っていて、こんなことを言うのも変な話かもしれませんが、手法に耽溺することの危険性は十分に注意した方が良いと思います。
なんか、偉そうな事を書いていると自分に対する壮大なブーメランになりそうなので、この辺で止めておきますね(笑)magicianさんの書き込みは考えるきっかけになっているので、それは本当にありがたく思います。

個人的な趣味を題材に知的生産そのものも含めて楽しむ

丁寧な返信をどうもありがとうございます。
「コンテクスト」の意味については、記事に書かれている内容で合っていると思います。「コンテクストの言霊」というのがピンと来なくて、「○○の言霊」ということで、どのような言葉でも言えてしまいますし、「コンテクスト」である理由は何なのかなというのが素朴な疑問でした。
言葉の使い方が上手く整理できていませんでした。個人的に言霊には特別のコンテクストを感じていて(夢を口に出せば実現される、悪い言葉は口に出さない。等)出来れば他の言葉を探したかったことが1つ。もう一つは、人間関係、文章の流れ、シソーラス的な言葉の関連、などとにかくバックグラウンドのつながりを強調したかったので、そういう言葉の選択をしたかったのだと思います。
こでで、いくつか返信を私のバックグラウンドと絡ませて説明させて頂きたいと思います。そのことによって今後の議論がしやすくなると感じたからです。
一言で言えば、 "個人的な趣味を題材に知的生産そのものも含めて楽しむ"というのが私、magicianのBG(バックグラウンド)です。

流動的な双方向性を持った知的生産

元のKJ法の記事(#735)の「既存の知識体系からの脱却」については、ちょっと誤解を与える表現だったかなと反省していますが、既存の知識を無視していいという話ではありません。むしろ既存の文脈がなければ「画期的なアイデア」なる概念すら存在し得ない。つまり、「コンテクストの共有」が前提にありつつ、「既存の知識体系からの脱却」をするという話です。脱却というか、その上に新しい視点を加えると言ったほうがいいのかもしれませんが、、、

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magicianさんのお立場はよく分かりました。元発言(#744)の意図は、あくまで「#735 KJ法の失敗パターンから知識創造のノウハウを学ぶ 」の話を補足するのもので、magicianさんのスタンスやPiggydbの使い方を否定するものでないことはお忘れなきよう。基本的には楽しく便利に使って頂ければそれがベストです。
「思いつき」については、表面的な連想と言い換えても良いかも知れませんが、言葉面だけ捉えていては深い発想はできない、というのが元記事の論旨でもあります。守破離という言葉がありますけれど、基礎があるから脱却できるということで、文字通り「「コンテクストの共有」→「既存の知識体系からの脱却」という一方通行」が基本になります。

"知識の蓄積と修正"と"知識の獲得手法と新たな視点"

#746の内容に関して、以下の2つのblogがとても参考になると思うので、良かったら元のブログの全文も参照して頂けると幸いです。
文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。
小説や脚本、ゲームシナリオなどの創造的な文章ならばなおさらだ。しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ。文章を書けるかどうかは、このことに気づけるかどうかだと思う。作家にせよ、ジャーナリストにせよ、それこそアルファブロガーに至るまで、きちんとした文章を書ける人はみんなこのことに気づいている。
いわゆる「ビジネスパーソン」と呼ばれる人々は、知識を軽視しがちだ。問題を効率的に解決する方法や、アイディアの出し方……マニュアル化された「頭の使い方」をマスターすることに夢中で、知識の蓄積を後回しにしがちなようである。頭の使い方さえ身につけていれば、知識は必要になったときにキャッチアップすればいい、キャッチアップできると信じて疑わない。ビジネスの世界で求められる知識とは、つまり、その程度の浅いもので充分なのかもしれない。
知識を身につけるとは、本来、そういうことだ。数十年後に百科事典一式に匹敵する情報を身につけるために、毎日少しずつ知識を蓄積していかなければいけないのだ。そうやって体に刻み込んだ知識は、一週間やそこらでキャッチアップできるような種類のものではなくなる。
自分のなかにある情報だけで文章を書こうとすれば、経験に基づいた私小説的なものしか書けない。そして、経験はすぐに枯渇する。インプットがない状態では、恒常的に文章を書き続けるのは不可能だ。ゼロを1にするスタイルでは、すぐに終わりがくる。本当に必要なのは、100を1にまとめる能力だ。
だから、「オレはこれから文章を書くぞ!」と決めたからには、もう「知識集め」をしてもムダ。おのれがいま持っている知識の量で、「作文」という「知的バトル」に挑むしかないのである。
でも、である。「文章を書く」とは、「脳内で起こる戦争」なのだ。ものすごくめまぐるしく、頭の中が回転しているのだ。そしてその勢いでもって文章を書くのだ。
そんなとき、一々「ええっと、ここにはこんな言葉を持ってきて、最後はこんなふうに締めて・・・あっ、ここには読点があったほうがいいかな」なんて考えていたら、まず、死ぬ。何が死ぬかって、文章を書いていくときに起きる「勢い」や「躍動」が、である。
で、こういったものは絶対に殺してはならない。なぜなら、良い文章、おもしろい文章はこうした「勢い」や「躍動」と表裏一体の関係だからだ。

”暗記教育>勉強の仕方”、という時代の反動を受けて、”既存の知識<知識の獲得”の手法という風潮が現代にはある、と私は感じています。
私個人は、読書も好きで既存の知識にも大いに刺激を受け、また先人にも敬意を払っているつもりです。一方で、とにかく日々新たなアイデアや発想が湧き出て、その記録とアウトプットに振り回されつつも、そのこと自体も楽しんでいます。
ですので、"知識の蓄積と修正"と"知識の獲得手法と新たな視点"を柔軟に双方向にバランスよく行っていきたいと考えています。
"獲得手法さえ知っていれば、いつでも簡単に知識を手に入れられる"というのは、私も誤解だと思います。真剣に知的生産に取り組めば取り組むほど、”既存の知識を本当の意味で自分の知識にする事の労力と価値”を再認識するようになりますよね。そして、先人の知識とそのプレゼンテーションに敬意と感謝を持つようになると思います。
P.S.
私は、モノや情報を捨てるのが大の苦手です。文章でも推敲が大事だというのは分かっていますが、削れない。むしろ、大事なことだから、何度も重複して書いたんだ。と都合良く捉えてしまうんですよね。
また、私のPiggydbはどちらかと言えば、0を1にするデータなのですが、それがとにかく溢れかえっているわけです。そもそも趣味の分野ですし、枯渇したらときのことはその時考えれば良いと考えています。

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紹介して頂いたブログを拝読しました。面白いですね。基本的には同意しますが、そして「ビジネスパーソン」と呼ばれる人々を批判するのもいいのですが、功利主義を実際に批判するのは生半可なことじゃないですよ。

アイデアは実現して始めて価値を持つ

この話は結構重要だと、個人的には思っているのですが、価値のあるアイデアというのは「思いつき」とは違うものだと思います。なので、アイデアを発想する、という表現にも若干違和感を感じます。これは以前にもちょっと書きましたが、その背後に膨大な文脈があることが重要なのであって、おそらくアイデア自体に価値はありません。アイデアと呼んでいるものは基本的に後知恵でしょう。
タグフラグメント」、事後的に発見されるアイデア 等とも関連しているだろうこの話には、私も強く関心があり、かつまだ自分の中で作者様の伝えたいイメージがなかなかつかめていないという自覚があります。その上で話させて頂きますと、帰迷閃(仮)-行きはEureka、帰りは迷子-が私の中で問題となります。つまり、Eurekaが生まれた背景には、自分の中のたくさんの経験、コンテクストがあるからだと思います。しかし、それらの膨大な経験、コンテクストを正確に理解し、他者に伝えていくことはとても難しい作業かもしれない、ということです。
なので、もちろんそのEurekaの背後にあるコンテクストを把握しようとする意識はとても重要ですが、まずは、そのEureka自体を記録、アウトプットしていく、という作業が大事であると感じています。
逆に言えば、その困難な作業を手助けしてくれる、"タグフラグメント"や"つながり"等を提供して下さるPiggydbには本当に感謝していますし、今後の進化にもとても期待しております。本当にどうもありがとうございます。
個人的には、"アイデアは実現して始めて価値を持つ"と言うところに重きを置いています。もちろん、そのアイデアの背後に正しい知識の共有に基づく膨大な文脈があれば、そのアイデアには、まだ実現されていない段階でもある程度の"信頼感"があると思います。教養や実績のある人の発言への信頼感と同じですね。
しかし、単なる思いつきから始まっても、そのアイデアを実現する過程で、既存の知識を参照して裏付けを取ったり、自分の記憶と経験を振り返って論理的にアウトプットして、他者への説明、プレゼンテーションを行ったり、といろいろな知的生産作業を行うはずです。
まあ、とにかく一方通行の形式に拘らずに、柔軟に流動性をもって、教養と思いつきのバランスをとりながら、楽しく知的生産を行っていきたい、というのが私のスタンスです。

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アイデアは実現して始めて価値を持つ
実現するというのは文脈の蓄積なので、当然価値を持つことになりますよね。「事後的に発見されるアイデア」というのは、何かを実現した後に事後的に説明されたものと言い換えても良いと思います。

素直に学び、知識を蓄積することの大切さ

平たく言えば、「コンテクストの共有」というのは、ひたすら勉強しろってことです。しかも、そこに自分流の解釈を挟まないことが大事です。挟んでしまえば、その時点で「コンテクストの共有」ではなくなります。もちろん、現実的に文脈を100%把握する、というのは不可能ですので、問題となるのはそこへ向かおうとする志向なんだと思います。
まず、自分流の解釈、恣意性は絶対に消せないことを理解した上で、出来るだけ中立的に考えることを志向するか、それとも自分のバックグラウンドを明示した上で自分の知識を構築、提示していくか、2つの意識を使い分けることが大事になると思います。
特に、義務教育で習う内容、公的な知識、一般常識、学術的教養、などとされる分野では、中立的な意識を持ち、"素直に"学習するという事がとても大事ですよね。大人になってから考えてみると、暗記教育というのも、自らの知的生産の土台としては悪いものでは無かったなと思います。
1つの言葉に対して、みんなと同じコンテクストを感じられる、ということはやっぱり大事なことなんですよね。
ただ、やっぱり土台作りばかりでは楽しくない、というのも子供の本音ですよね。土台作りの大切さと、自らの知的生産の手法の発見と追求、その両者をバランスよく教育に取り入れていければよいと思います。
日本的な師匠と弟子の関係にも、再認識すべき点、改めてリスペクトされるべき点もあるのでしょうが、その当たりは私自身が不勉強なので、触れないでおきます。
P.S.
最近の考えでは、"教科書は決して中立じゃない"、"マスメディアは恣意的・商業的だ"などという考えも大きいですが、まあそういう事も意識しつつ、先人の知識を学ばせてもらう生徒として、"素直"に勉強するということの価値、も見直されるべきなのかなと思います。
教科書の内容やマスメディアの報道よりも、あるblogの解説の内容が、"個人的に納得しやすい"から、とソーシャルメディアを重宝する。まあ、それ自体は悪いことだとは思いません。複数の視点を意識することも大事です。ただ、"ソーシャルメディアを盲信"する事はやはり危険ですよね。
教科書やマスメディアにも恣意性があるにせよ、最低限の権威による信頼性や公共性というものが存在するわけです。1つの情報に対して、何人ものプロフェッショナルが裏付けをして、内容を推敲して、万人に向けて発表する。その過程にはやはりある程度のリスペクトがなされて当然だと思います。

知識の発信者(Source)意識

知識の発信者(Source)意識
Piggydbならば、特に個人での使用の場合、ユーザーアカウントに"Wiki"や"○○News("具体的な番組名)、書籍名、ソーシャルメディアの登録名、などを登録していく使い方も面白いと思います。wikiから得た知識は、wikiアカウントで登録して、蓄積していくのです。そして、"つながり"や"フラグメントの埋め込み"を使って本人のアカウント(私なら"magician")で作ったフラグメントと関連づけていきます。
Web上など、複数の方が使われる場合は、厳密に考えていくならば、誰がそのアカウントで登録をしたのかを記録する必要があるかも知れません。(そこまでの厳密さは必要ないかもしれませんが)

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ちょっと誤解があるようですが、文脈を把握するというのは、中立的に考えるということとは違いますよ。そういった価値判断の外にあるものです。「"素直に"学習するという事」とも違います。文脈は「背後」にあるものなので。

手法に耽溺することの危険性と知的生産フェチ

このようなツールを作っていて、こんなことを言うのも変な話かもしれませんが、手法に耽溺することの危険性は十分に注意した方が良いと思います。
その通りですね、アドバイスどうもありがとうございます。私も普段の仕事や通常の学習における知的生産は、できるだけ既存の知識と手法に敬意を持って、なるべく"普通"に行うようにしています。
ただ、一番Piggydbを活用したい分野はあくまで"趣味"の領域なので、手法を考えること、そのものを楽しんでも別に良いかなと思って、開き直って楽しんでします。今は、手法を考えること、そのものが楽しくて仕方がないんで。
意識して、"知的生産の技術に関するフェティシズム"を楽しんでいます(笑)。私は知的生産フェチなんですね。
フェティシズム
私は「目的と手段が入れ替わってしまうこと」と解釈しています。

なんか、偉そうな事を書いていると自分に対する壮大なブーメランになりそうなので、この辺で止めておきますね(笑)magicianさんの書き込みは考えるきっかけになっているので、それは本当にありがたく思います。
そう言って頂けるととても嬉しいです。私自身、こんなに素晴らしい知的生産ツールを提供して頂けているだけでとてもありがたいのに、その作者様ご自身と知的生産の技術に関する議論が出来ることを本当にありがたく思っています。今後もどうぞよろしく御願い致します。

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フェティシズムですか、なるほど。なんにしろ、情熱というかエネルギーが一番大事だなあというのは、最近特に思いますね。とにかく量をこなせば質に転化するでしょうし。自分のフェティシズムに忠実に邁進しちゃって下さい~