剥き身の自分を隠すことさえ考慮にない、そのある種の無鉄砲さ、清々しさ

南野陽子は女子校出身ですが、プロフィールを見る前から私はおそらくそうなんだろうと思っていました。女子校出身者はしばしば、男性がいない状況で、ジェンダーとしての女性を内在化させないことがあって、すべての女子校出身者がそうではありませんが、自然な独立心を持っている女性のかなりが女子校出身者です。

そうした女性の社会への眼差しはアンチでもなければ評論家的でもありません。あくまで自分もその一員であると言う、責任感を持っている、部外者性をあらかじめ排除しています。

たびたび引用している松任谷由実の評ですが、彼女は南野陽子について、

「彼女は自分を持っているから好き」

と言っています。自分を持っていない人なんているんでしょうか。誰しも逃れがたく自分を持っています。けれどもその自分は幾層にも思惑や配慮や自分がこうなりたいというロールモデルによって塗り固められていて、剥き身の自分が自分でさえ分からなくなっている、特に女性はそういう人がほとんどです。

この場合、南野が自分を持っているというのは、剥き身の自分を隠すことさえ考慮にない、そのある種の無鉄砲さ、清々しさを指しています。それは絶対的に、かつ盲目的に自分を肯定する、傲慢さとは似て非なるものです。その種の傲慢さは実は絶対ではないからです。
マスダ80年代女性アイドル論~南野陽子論