驚異の部屋、そのドキドキとワクワクの源泉の秘密とは?!

自然物も人工物も珍しいものなら分野を隔てず一所に取り集められるのが特徴で、その収集対象も、珊瑚や石英を加工したアクセサリーや、アルチンボルドを始めとする奇想を描いた絵画、(しばしば架空の)動植物の標本やミイラ、巨大な巻貝、オウムガイで作った杯、ダチョウの卵、イッカクの角(ユニコーンの角だと思われていた)、象牙細工、ミニチュア細工、錬金術の文献、異国の武具、数学や医学用の道具、天球儀や地球儀、オートマタ、東洋の陶磁器、聖遺物やアンティークなど多岐にわたる。

受け手に興味を持ってもらえる仕掛けを

少し前から、「続きはWebで」というCMが増えましたよね。私はCMこそ、その道のプロフェッショナル集団が作った究極の「シンプル・イズ・ベスト」の1つだと考えています。
ただ、ここで問題となるのは、シンプルであるというのは単に要素が少なければいいということではなく、本質的な部分を残して不必要な部分を捨てるということです。これはトレードオフの伴う大量の選択肢の中を、悩みながら試行錯誤した経験のある人しか辿り着けない境地です。シンプルにするというのは、物事の本質を見抜いてその構造を抜き出す作業なのです。生半可なことではできません。
そのCMにおいて、「続きはWebで」という形が増えてきたことは、CMという情報の出し手と受け手の両者に「少しでも正確なコンテクストを伝えたい・理解したい」という潜在的な意識が芽生えてきたことの1つの兆しではないでしょうか? もちろん、マーケティング的な面も大きいのでしょうが、私自身はそう感じています。
私がID番号801で提案している概念は、この「続きはWebで」にも非常に近いものになると思います。「受け手にピンポイントの解答を与える」キーワードから「受け手に興味をもたせる仕掛け」ID番号801に変化してきているのだと私は考えています。言い換えれば、以前のCMなら「こういう状況ならコレを買え」といきなり答えの商品そのものを提示してきましたが、最近のCMでは、まず「受け手に興味を持ってもらおう」、「受け手に今がどういう状況なのか改めて考えなおす機会をもって欲しい」といった風に変化してきているように感じます。
特に現代のようなローコンテクストな社会では、CMの短い時間で受け手が正確なコンテクストを理解するのは、大変に難しくなってきていると思います。(ターゲティングの問題はもちろんありますが)そこで、情報の出し手がCMで伝えたいコンテクストを理解する時間を受け手にもってもらうために、受け手に興味を持ってもらえる仕掛けをするようになったのだと、私は思います。(情報の出し手がプロフェッショナルであっても、受け手が一般人である以上は、正確なコンテクストの理解にはある一定の勉強の時間がどうしても必要になると、私は思います)

受動的な閲覧時にもセレンディピティを起こす仕掛けを → ...

Amazonなどで、過去の購入履歴から特定のユーザーに勝手にオススメの商品を紹介してくるサービスなどがありますが、データマイニング-Wikipediaという技術が元になっているそうですね。
そのデータマイニングを活かしたアプリの記事で面白い記事を紹介させて頂きます。
テレビとか新聞はとても優しくて、テレビをつけておいたり、パラパラと紙をめくっていくだけで、何かしらの情報が入ってくるんですよね。それがWebに欠けていることだと思っています。莫大な情報があるWebの中で、自分の興味のある情報を自分から探しに行かなければいけないのが、すごく辛いことだなと感じるんです。
私はツイッターやフェイスブックはそもそもアカウントを作っていないので、このアプリとは縁がありませんが、面白い発想のアプリだと思います。セレンディピティな発見もありそうですよね。
(この引用内容を更に踏み込むと、一部の現代人には"自分が見たい情報だけを見たがる"、"知りたくない情報はシャットアウトしたい"という願望があり、またそれを叶えるツールがたくさんある、と話を展開させることも可能ですが、本題ではないので止めておきます)
Piggydbにも#663 Piggydb 6.6 リリース - 「フラグメント・シャッフル」 という機能があり、これはとても素晴らしい機能だと思います。ただ、あくまで能動的な作業が必要ですよね。なんとなくTVを付けてきたら、新聞を眺めていたら、セレンディピィティが飛び込んできたというような体験を増やすためには、起動時のデフォルトのフラグメント・ツリービュー画面が、常にシャッフル状態で表示されたりすると、更に面白くなるかもしれません。受動的な閲覧時にもセレンディピティが発見されるような仕掛けがあると、Piggydbももっと面白くなりそうですね。(もう既に、そういう設定が可能なのであれば、ぜひとも教えて頂けますでしょうか。よろしく御願い致します)

追記 例えば、毎朝おみくじを引くような気分で、シャッフルボタンを押すような習慣を作っても面白いですね。大事なのは、いろいろと能動的に知的探索を行っているとき以外の時間にも、様々なフラグメントが様々な組み合わせで目に入ってくるようにすることですので。

創造性の源泉 - 類似性の発見

もし我々が世界のあり方をそのまま認識でき、その情報を他者に欠落なく伝達できるとしたらどうでしょうか。
そのような世界では不可知なことは存在し得ず、誤解、というよりそもそも解釈というものも存在しないでしょう。よって、文学や芸術が生まれる余地もありません。
しかし、現実には、身体的、物理的な制約があって、そのようなことにはなっていません。たとえば、我々は情報を脳という限られた場所で処理しなければならないので、何らかの形で情報を圧縮する必要に迫られます。
そのような制約から、我々は「類似性を認識する能力」を手に入れたのではないか、これは私の勝手な想像ですが、そのようにとりあえずは考えることにしてみます。
類似性を認識することによって、似たようなものを「同じもの」として扱うことができるようになります。たとえば、我々が「りんご」という場合、その対象は数え切れないほど無数にあります。りんごの個体ひとつひとつは微妙に形も違いますし、中には色が全く異なるものもあります。それでも、我々はそれらを同じ「りんご」として認識し、日常的なコミュニケーションにおいて誤解が発生することもほとんどありません。ここで情報はかなり圧縮されていることが分かります。
もちろん、圧縮することによる弊害もあります、我々は日常的に誤解や解釈の違いから来るディスコミュニケーションを経験しています。運が悪ければそれが争いの元になったりします。
しかし、一方で圧縮された情報が多くの人を感動させたり、特定の人を救ったりすることもあるわけです。
この、どのように情報を圧縮するか(圧縮したものをここではコンセプトと呼んでいる訳ですが)、そしてそれがどの程度他者に影響を与えたか、それが創造性の尺度になるのではないか、とりあえずここではそのような仮説を提示しておくことにします。

『ドアコン(仮称)』(ID801番) → ...

 まさにその瞬間、彼の脳裏にハッとイメージが浮かんだ。そのイメージこそ、今彼の脳内宇宙を駆けめぐっている疑問への答えそのものである。と、彼は理屈抜きに確信していた。彼はそのイメージを脳内宇宙で何度も反復し、暗唱し、そのイメージを確かな言葉、キーワードとしてから、おもむろに明かりをともした。のっそりと体を起こすと、枕元から愛用のメモ帳を取りだしお気に入りのペンでそのイメージのキーワードを書き記した。
「――――」と。
 そこで、彼はふと思いとどまった。このイメージは本当にキーワード、問題を解く鍵そのものなのだろうか。むしろ、ドア、入り口のようなものではないか。そう思い立った瞬間彼の脳内宇宙に知的快感が波となって押し寄せた。新たなイメージ達が、次から次へと波に乗って彼の脳内宇宙に押し寄せてきた。
 ドア。入り口。鍵。ゴール。ドアは1つか。いや複数だ。ドアの集合体。コンプレックス。ドアコンプレックス。シネコン。シネマコンプレックス。ドアコン。ドアコン、これこそが新しいキーワードだ。いや、またキーワード? それじゃあ矛盾する。座標。ID。固有識別番号。無感情。先入観の排除。キーワードは先入観を招き、想像力を阻害する。本当にこのイメージはドアコン、だけなのか。驚異の部屋。(博物学)。新鮮な素材。たくさんの様々な種類の新鮮な素材。市場。食材の市場。青空市場。うん、やっぱり多数のイメージがある。座標。そうこのドアの座標だけがあればいい。その座標からたくさんの四次元ドアが広がっている。! タグフラグメント。名前のないタグ。フラグメント番号を機械的にIDとして割り振れば。やっぱりPiggydbはスゲェ。スゲェよ。タグフラグメント。名前のない括り。タグフラグメント。・座標ID。・ドアコンプレックス。・キーワードは付けない。・ゴールではなくこれが、入り口。・先入観を排除し、想像力の広がりを。・食材の市場。タグフラグメント。・座標ID。・ドアコンプレックス。・キーワードは付けない。・ゴールではなくこれが、入り口。・先入観を排除し、想像力の広がりを。・食材の市場。タグフラグメント。……。
 ひとしきりイメージの波が落ち着いた後、彼はまたそのイメージを思い返した。
 一度、二度。
 最初からもう一度。
 どんな風に連想したのか、ゆっくりと思い出した。
 ふーっと深呼吸を挟む。
 そして、もう一度イメージを反芻する。
「……よし、もう大丈夫だ」
 彼は、自分の脳内宇宙が、最低限の落ち着きを得て、仮組みではあるがイメージを構造的に記憶できたことに安堵感を覚えてペンを取った。その時、彼の脳内宇宙に知的快感の余韻はもう無かった。彼の脳内宇宙では大迫力のビッグウェーブだったが、現実世界の紙にインクを引けば、それがとてもちっぽけなものに見えた。それが文字だろうが、絵だろうが、図解だろうが、皆同じ事だ。A6のメモ帳の見開き1ページ。客観的に見てまさに手のひらサイズだ。
 客観的。
 そう、彼はもう自分のアイデアを客観的にみれるまでに落ち着いていた。先ほどまでの彼は、自分が天才だと錯覚していたが、今はもう正常だ。彼は自分が凡人であることをよく知っている。あいにく、彼は酒を飲んだことがなかったが、『酔いが覚める』とはまさにこういう気分を指すのだろう。
 だが、彼は知ってもいた。複雑怪奇で入り組んだアイデアの方がいかにもかっこよさそうだが、現実に役に立つのは、短く小さく圧縮された情報であること。シンプルで分かりやすい組み方をされたアイデアであること。
 そして、分かっていた。それでもそのアイデアは現実の世界において、とてもちっぽけなものであるとも。現実には、同じように圧縮され、シンプルに組み立てられた情報がたくさん集まって、本になり、辞書になっていることを。だから彼は謙虚に素直に、そしてポジティブに思った。
「良い道に向かって、一歩前に進めた。今日は良い日だなぁ」

----

作者注。

この描写は長いです。後半部分は1フラグメントに1コンテキスト、という原則から見たら蛇足。後半部分があることで、複数のコンテキストが存在してしまっている。ただ、ストーリーの余韻としてはあっても良いかなと思い、残しました。

また、後半部分のコンテキストも知的生産に関する素敵なコンテキストである気がしていますし、また前半部分のコンテキストとのつながりも大事に記録しておきたいとも感じています。