なぜPiggydbなのか?

知的生産という行為が日に日に重要になっていく昨今、そのための道具を日常的に利用している人はとても多いと思います。意識的にEvernoteのようなサービスを使わなくても、Gmailを利用すれば日常的に入ってくる情報が勝手にデータベース化されますし、TwitterやFacebook、ブログなどを利用する過程でも、知らず知らずのうちに、情報を摂取し、加工し、発信するというサイクルの中で知的生産の領域に足を踏み入れることになります。
こういったサイクルの中で、多くの人が習熟するのは「道具の使い方」です。アプリケーションやWebサービスのような道具の使い方はもちろんのこと、そこで流通する「言葉」も、ある種の道具です。あるサービスについて詳しかったり、流行の言葉や決まり文句を適切に使いこなすというのは、ある意味、分かりやすい物差しです。その延長には「専門家」と呼ばれる領域もあります。
しかし、これからの世界で重要になっていくのは、道具の使い方に詳しくなることではなく、いかに新しい道具を作るか、ということではないか、そのような考えがPiggydbの背後にはあります。
特に日本においては、与えられた道具をうまく使いこなすこと、道具自体を改良することについては、それなりの実績がありますが、全く新しい道具を生み出すということについては、苦手としているように感じます。
新しい道具を生み出す原動力は、人間に自然に備わっている「類似性を発見する力」です。本来は無関係だと思われていた事象の間に類似性を発見し、それを新しいコンセプトとして提示する。その類似性に新規性があり、かつ射程が広ければ広いほど、そのコンセプトには価値があります。そういったコンセプトの発見を補助するためのツール、それがPiggydbです。

創造性の源泉 - 類似性の発見

もし我々が世界のあり方をそのまま認識でき、その情報を他者に欠落なく伝達できるとしたらどうでしょうか。
そのような世界では不可知なことは存在し得ず、誤解、というよりそもそも解釈というものも存在しないでしょう。よって、文学や芸術が生まれる余地もありません。
しかし、現実には、身体的、物理的な制約があって、そのようなことにはなっていません。たとえば、我々は情報を脳という限られた場所で処理しなければならないので、何らかの形で情報を圧縮する必要に迫られます。
そのような制約から、我々は「類似性を認識する能力」を手に入れたのではないか、これは私の勝手な想像ですが、そのようにとりあえずは考えることにしてみます。
類似性を認識することによって、似たようなものを「同じもの」として扱うことができるようになります。たとえば、我々が「りんご」という場合、その対象は数え切れないほど無数にあります。りんごの個体ひとつひとつは微妙に形も違いますし、中には色が全く異なるものもあります。それでも、我々はそれらを同じ「りんご」として認識し、日常的なコミュニケーションにおいて誤解が発生することもほとんどありません。ここで情報はかなり圧縮されていることが分かります。
もちろん、圧縮することによる弊害もあります、我々は日常的に誤解や解釈の違いから来るディスコミュニケーションを経験しています。運が悪ければそれが争いの元になったりします。
しかし、一方で圧縮された情報が多くの人を感動させたり、特定の人を救ったりすることもあるわけです。
この、どのように情報を圧縮するか(圧縮したものをここではコンセプトと呼んでいる訳ですが)、そしてそれがどの程度他者に影響を与えたか、それが創造性の尺度になるのではないか、とりあえずここではそのような仮説を提示しておくことにします。