何のために「分類」するのか?

そもそも何のために「分類」するのでしょう? おそらく多くのケースにおいて、分類は後々の検索性のために行われるのではないでしょうか。例えば、カテゴリーは、全ての情報が、体系化されたカテゴリーのどこかに必ず所属するという条件を以って、情報の検索性を保証する仕組みです。
しかし検索性を確保するためのカテゴライズは情報量が多くなるに従って必ず破綻することが知られています。いわゆる「こうもり問題」です。また分類という作業は継続的に行うには知的負荷の高い作業です。カテゴリーの多重化などによって「こうもり問題」を解決しても一貫性のある分類を維持するのは至難の業です。よって、分類することは放棄され、情報は時系列に保存しあとは検索すれば良い、ということになります。
これは完全に私の主観的な考えですが、こういったいわゆる情報管理のための整理術云々(書店に行くとそういった書籍が沢山並んでいますが)、というのは全く重要なことではない、はっきり言って、どうでもよいと考えます。それよりも「何か重大な情報を見逃してしまっているのではないかという強迫神経症」から早く解放されるべきです。
ではPiggydbにおける「分類」とは何なのか? それは一言で言えば、「ユーザー自身が学習するため」の分類です。本来分類という作業は機械的にできるものではありません。先程書いたように知的負荷の高い作業です。検索のためのタグ付けであれば、単純にキーワード検索でもいいということになってしまうかもしれませんが、本当の分類(classification)は、そのキーワードが情報に含まれるかどうかとは無関係です。よって、Piggydbではユーザー自身が考えてタグ付けすることが重要です。

何のために「分類」するのか?を読んでホッとしました。 実はいろいろ登録していたのですが、タイトルはともかくとして タグ登録にヘトヘトになってしまい、まさにコーモリ状態でした。 現在はタイトルだけは書きますが、タグは無視してとりあえず登録を 繰り返しています。 タグはフッと気がついたときに登録しています。おかげでスピードがアップしてフラグメントも多くなりました。 次のステップへ行けそうです。

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その後の経過です。 自分なりにタグ付けを省略化をすることで、フラグメント登録が加速しました。 当然のことではありますが、登録したフラグメントを利用する機会も増えてきました。つまり「フラグメントを探し出す」機会が登録が増えたことと比例してきました。自分なりに、いよいよ活用時期になった思っております。 作業を分類整理(タグを付ける)と探し出す(検索)に分けると、私の脳の働きが必ずしもリンクしていないことに気がつきました。簡単に言うと検索のキーワードとタグがヒットしないということです。フラグメント登録した記憶はありますが、検索でお目当てのフラッグメントがヒットしません。 どうもタグを付けるときに、タグを抽象的な(分類項目的な)言葉を選んでいたようです。これに反して検索では、ヒットしやすいようにより具体的な言葉を選んでいました。1人で登録と検索では全く違う発想で行っていたのです。 フラッグメントが次第に多くなり活用段階になってそれに気がつきました。そんなわけで再びタグ登録を見直しております。 そこで1つ勝手な提案です。タグを入力するとき補完でタグが昇順で表示されますが、できれが登録順(新しい順)に表示できるといいのですが。。これは同一のタグに関連したフラグメントをまとめて登録することが多いためです。 長くなりましたが、私には「使い方に悩んでも,思考過程を整理し、自分専用のデータバンクを作るソフトウェアです」

分類とつながりの効用

#155で既に論じられていることを再論するようで恐縮ですが、この間から考えていたことを書かせていただきます。
「『超』整理法」(野口悠紀雄著)では分類の問題点として次の各点をあげています。
  1. こうもり問題(暗闇でぶら下がっているコウモリのように、どこに分類したか、どこに分類すべきか分からなくなる)
  2. その他問題(その他分類ばかりがふくらむ)
  3. 誤入問題(間違えて分類してしまい見つけられなくなる)
  4. 分店時の在庫引き継ぎ問題(分類を細分化し、分家にする場合、一貫性を保とうとすると手間が半端でない)
  5. 君の名はシンドローム(何と名付けたか忘れてしまう)
そしてそのような問題点のある分類に精を出すぐらいなら、分類せずにファイル毎に時系列に並べておきなさいと説いています。
実際、紙媒体の書類を一定のスペース内で時系列に並べ、適宜いらないものを処分しながら、ところてん方式で押し出されたものを捨てる、取り出したものはまた最新ファイルとして手前に戻すという方法で管理すると、実際に使うものを使いたいときにピックアップできて大変便利です。
ただ、上記の各問題点はコンピュータとソフトウェアの高機能化により、電子ファイルについては相対的に問題が小さくなってきていることもまた事実かと思います(何といっても1993年に発行された書籍ですから)。コピーも検索も紙媒体に比較してとても簡単です。Piggydbなら負荷なくカテゴリを複数つけることができ、つながりと連動させればコウモリ問題の発生の頻度をかなり下げられます。少なくともどこに保存したのか分からないという状態は極めて発生しにくい状態です。となると少なくとも電子ファイルについては、分類することの問題点を論じることより、#155のように「何のために分類し、つながりをつけるのか」を考えた方が実があると思います。
「脳と気持ちの整理学」(築山 節-脳神経外科専門医-著)は、脳には長期記憶の書庫と一時記憶の机があるが、いきなり長期記憶の書庫に入れることはできず、一時記憶の机に一旦はのせる必要があるといいます。そして一時記憶の机は「マジック7」と呼ばれるほどに狭いため、細切れの入力、ファイル化(情報を分類しカテゴリーごとに整理、確認する)が必要である、また、キーワードは記憶を引き出す手がかりとなる、と説明しています。これは#155で説明されている、「『ユーザー自身が学習するため』の分類」ということに通じるのではないかと思います。

Piggydbが主張するところの「分類の目的」について、分かりやすくパラフレーズして頂いて有難うございます。
「『超』整理法」では、検索のための整理について、「分類」という手法は有効ではないから「時系列に並べよ」と主張しているわけですが、コンピュータが当たり前の時代においてはそれすらも必要なくなったということになりますよね。必要な意味付けも自動的に行われるようになっているし、検索技術は飛躍的に進歩しています。
では、今の時代に「分類」する意味とは何なのかというなりますが、今だからこそ意味があるのではないかと考えています。
今って、何といいますか、情報がフラットに流れるようになっていて、文脈とは切り離されていますよね。そして単に「(雰囲気だけで判断されるような)うまいこと言った」的な情報だけが注目されるようになっていて、それは知識としてはとても価値の低い部類に属するのはないかと個人的には思います。ある程度の量の情報を何度も精読しながら、内部に眠っている構造を自分なりに丹念に組み立てる、というようなことが重要なのではないかなあと思ったりしています。
だからと言って、単にカテゴリという形で体系を作ろうとするなど、道具立てを間違えれば、「『超』整理法」の指摘する罠にはまることになるので、それを克服できるような柔軟な「意味付け」の道具立てを作れればいいと思っているのですが、まだまだ先は長そうです、、、

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単なるキーワードではなくて、minakajiさん的には重要な分類になっている、ということなのではないでしょうか。
その時点でイメージしている「私的には重要」な枠組みみたいなものがあって、個人的にはそのタグで分類されていると
  1. 頭の中が整理されて理解の助けになっているように感じられる
  2. キーワードを失念することなくいつでもこのタグで情報が取り出せるという安心感が感じられる
という2つの効果があるように思うのですが、時間が経つと「何でこんなタグ付けしたんだろう」と全く無意味に感じられることもあります。
ですので正確に言うと「その時点で私的には重要」という状態でタグを付けています。
だけどそれでいいのかもしれません。Piggydbは再分類したければ簡単にタグの付け直し、renameができますし、何よりタグのタグ付けという強力な仕組み(これは分店時の在庫引き継ぎ問題を低コストで解決します)がありますからタグの付け直しのコストはそれ程高くありません。先日、実際にタグの総整理を行いましたが、頭の大掃除をしたようなすっきり感すら感じられました。
シングルユーザならばこれでいいんでしょうけれどね。